きょむちらかし

舞台オタクの嘆きを投稿します。時折解説、考察様々。

歌合 乱舞狂乱 2019について 1

今更ながら、「ミュージカル刀剣乱舞 歌合 乱舞狂乱2019」の考察をしたいと思います。

 

ネタバレ防止の宣言がされていた作品のため、オンタイムでの考察が難しかったのと、その後コロナにより気が滅入ってしまったため今更となります。

 

前置きとして

刀ミュの入り口は「みほとせ(初演)DVD」でした。

そのため、みほとせ、あおさく系列に対する熱が異様なほど強いです。

 

それを踏まえて乱舞狂乱していきます。

 

テーマ:隠された謎を解け

 

全体考察はいくらでもやってくださってる方々がいるので、私は本当に自分が気になったところだけを今更話していきます。

 

千子村正の不在」

 

もちろんキャストさんの出演の都合とかいろいろそういうところはおいておきます。

この「歌合」になぜ、千子村正が出陣しなかったのか。

ここで、日替わりではなく、アドリブでもなく常に村正が語られる瞬間を思い返します。

 

【美的風靡】 M17『夕涼み 時つ風』

サブステで語られる湯上りのシーンです。

初日長野のソワレがちょうどこのステージ真横でして、

たまらんかった思い出があります。本当に軽装ありがとう・・・

蜂須賀の軽装が後から追加されたのも本当に強すぎて最高でした・・・

 

本題に戻りましてここでは、湯上りの刀剣男士たちが日々のなかでの会話を楽しむようなシーンです。

その中で「一人たりない」という話になり、村正はまだ蜻蛉切と任務中のため戻ってきていない。とにっかり青江が語ります。

 

ここでわかる時系列としては「みほとせ」の信康の死(検非違使戦)以降、「あおさく」帰還前。と考えることができる。

(いろいろな本編とのセリフ相違については後程触れます)

 

本編はそこで任務を遂行中の村正と蜻蛉切の無事を祈るという心温まるストーリーとなっています。

 

彼らの本丸、もちろん任務中を私たちは舞台で見ているため、任務中のことばかりだけれど、あおさくの時に残っていた篭手切くんの言葉からしても、本丸で過ごす時間は長く、そして考えることもきっと多い。

 

そんな彼らの生活を垣間見ることができる素敵な作品だったと思う。

 

しかし、問題が一つ。

「いつも」湯上りで一緒になる村正は、「顕現後すぐ」みほとせの任務に向かったはずだ。

 

「いつも」一緒になるのは、だれ?

 

あおさくの任務の中で帰還していないことは明白だが、これはどういうことなのだろうか。

和泉守や蜂須賀と村正が会う隙は無かったはず。

 

そこで立てられる仮説は・・・ 「千子村正折れた説」

そして、みほとせの世界線の話。

 

あつかしとあつかしパリで演出相違があったように、みほとせ、みほとせ再演でも演出相違は多々ある。

 

一番印象的な相違は「家康公死の際の信康さんのメイク」

初演では老けメイクがなく

再演では老けメイクががっつりされている。

 

もしこれが演出都合などではなかったとしたら、

初演では老けていない→生きていたのは幻想

再演では老けている→実際に五平として生きている

 

と考えることができる。

そこから見えてくるのは「あおさく」とのつながり。

公演順に考えるならば

みほとせ→あおさく

の時間軸の流れが順当だが、

 

もしも、「みほとせ」と「みほとせ再演」の時間軸が違うものだったとしたら・・・

 

「みほとせ」では救うことのできなかった信康さんが「みほとせ再演」では生存している。

 

「あおさく」内で村正は信康さんの死を受けて、長年の恨みを晴らすべく、検非違使と出会ったときに発狂*1することになる。

「みほとせ」での石切丸と同様に発狂し、そして本来以上の力を得ることになった。

(ここの立ち回りがかっこよすぎて毎回息が止まりそうだった。)

 

この「信康の生存可否」が大きくルート分岐をさせていると考えることができるが、その大きな存在としては「三日月宗近」であり「三日月宗近という機能がある」ことだ。

 

石切丸(服部半蔵)に助けられたという信康は、その場で別れている。

石切丸がなぜ信康を助けたのか。という理由に関して様々な考察ができるが、今回の話題とややそれるため一度放置する。

いつかそこの話をできる時が来たら・・・

信康が検非違使と戦うことができるほどの戦力となったきっかけを作ったのは明らかに三日月宗近だと考えられる。

 

信康さんが、物部としての役割を与えられたのは本当に「みほとせ」の後だったのか。

 

 「みほとせ再演」では物部としての役割が与えられ、生きていた。

その為に「あおさく」に繋がったのではないか。

「みほとせ」の時間軸では信康さんはあのまま命を落としたのではないか。

 

もし、「みほとせ」と地続きの話としてあおさくの様に歴史が続いていったとしたら、

検非違使に再び遭遇したとき、発狂した村正を止める術はあったのだろうか。

「生きてた」という安堵、そこからくる村正の成長と浄化。

それがないことになる。

ないまま、発狂状態が続き、検非違使との闘いを続けることになったとしたら

「その力は危険だ」蜻蛉切が叫んだように、危険な状態になることは明白である。

 

 結論として

みほとせ(初演)と、みほとせ(再演)が別物であるという考え方で進むと、

村正が折れたという考え方に比較的つなぎやすい。

 

この「歌合」自体が、様々な脚本家さんが手掛けるもののため、本編と逸脱した話がある可能性は否定できないが、

わざわざ「蜻蛉切と村正は任務中」ということ、「一足先に自分は帰ってきた」ことを宣言するだろうか。

 

他のシーンでも歴代のミュージカル刀剣乱舞に通じる内容を会話していたり、表現していたりする部分はある。

その中でも異質な鬼門と呼ばれるサブステで語られたこの物語。

 

謎は多いけれど、結論はここだと思う。

千子村正は刀剣破壊され、二振り目である」

 

「ぬばたまの、我が黒髪に、降りなづむ、天の露霜、取れば消につつ」

次は現代語訳も交えて考察進めたいです。

(本編ほぼ触れなかった!)

 

*1:ここの演出については様々な解釈ができるが、当ブログでは「発狂」と総称します。